2007年01月05日

土地と日本人 その3

さらに石井は続けて、 所有概念の哲学的な根拠に遡及し、ヨーロッパと日本の違いを抉り出す。そこには、「公」と「私」に関わる彼我の違いが横たわっている。

「かれ(カント)は土地所有は基本的に共同所有であると考えたのです。個人の所有はその共同所有の一部分であると・・・普遍的な共同所有の下に自分の所有をさしだしているというのであって・・・土地所有は絶対的な自由ではなく、制限がある、その不自由をわれわれが自己の意思で自発的に作っていると考えたわけで「公」の構成部分として「私」があると考えた・・・「公」を離れて「私」はないし・・・「私」がしっかりした根をもちながら、「公」のなかに組みこまれているのです。」
「日本の場合には、「私」は次々に日陰者として押し込められていって・・・上の支配に正直に向かい合った形で自分たちの生活を形成するわけです。「公」の体制に合わせて自分を作るわけだから、「私」はだんだんに日陰者になってしまう。」

ここに至って、司馬は日本における「公」「私」の曖昧さそのものに行き着く。

「日本の「公」というのは実に曖昧ですので言葉を変えてしまわねば・・・例えばパブリックという言葉のように生で使ったほうがいい・・・」
「たとえば、中国でも、蒋介石の時代に七十数パーセントの小作がいたわけですから、そういう私的な地主を追放すれば革命が行えるわけ・・・日本の場合、われわれが加害者であり、同時に被害者であるという極めてややこしい関係にあるわけです。これを明晰な形で解決するのは大地だと思うのですが・・・」

つまりは、「公」と「私」が入り混じり入れ替わる。
そして、ことは私的所有に基づいて社会的生産を営む社会構成体である資本制社会の日本的特質そのものに及ぶ。
いうまでもなく、私的所有物である生産手段によって営まれる生産活動は、私的利益の追求であると同時に社会的富の生産である。無人島のロビンソンクルーソーではなく資本制社会に存在するわれわれの生産活動は、商品交換を前提とした社会的分業に基づくものである。
日本において、その生産関係の中における資本家と労働者といういわば「公」的な規定性は、一労働者の人格においてすら、日常的に転換しうる。 とある工場の一労働者は、「私」的場面にあっては先祖伝来の田んぼを工場用地として貸している地主であったりするわけである。
司馬が憂える日本の土地問題は、日本における土地所有そのものが、基本的にこうした小規模で大衆的な私的所有によっており、それゆえに「公」=社会性が問われづらい構造に根を発しているのではないだろうか。
すでにみてきたように、ヨーロッパにおいては私的所有そのものは「公」に組み込まれており、そのコインの裏側にはその社会的性格が明確に刻印されている。封建制から近代資本制社会に移行する中で、土地所有の社会性そのものが根底から鋭く問われざるをえない過程を経ているはずである。
翻って日本の場合には、どうだったのだろうか?

               ・・・・・・・・ 続く ・・・・・・
posted by 新八 at 05:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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