「日本人の国民経済だけでなく精神も文化もモラルも都市も農村も、何もかも土地という悪の巨大な誘引体のためにだめになってゆく―もしくはだめになってしまった―ように思うんです。このために日ごろはまことに傍観者であろうと努めている私が、この土地問題になると、急にアクティヴな人間に変わり、この問題だけはどうにかしなければならないと思ったりしているのです。」
そして、法制史学者である石井と律令制まで遡り日本人の土地意識のルーツを探る。
石井は土地制度の変遷を明快に解き起こしてくれる。
「だから律令政府などというものは、住宅公団か土地開発公団で、農地を造成して配分することに目標があったわけです。・・・班田収授法という制度は、国家がこれだけは水田を造成して農民に配りたいというものだったと思います。」
「この開発政策で生産力が増加し、人口が増えてくるとたちまち口分田は不足してくる。そして班田制を運営できなくなると、民間ディベロッパーの手に委ねることになるわけで、三世一身の法とか墾田の永世所有を認めるとかいう現象は、こうしたディベロッパーの活躍を公認するものだったと思います。」
「律令制の原則では官の水、つまり公水を使わないで開墾した土地は私人のものになるわけで、こうした方法によって私有地が拡大していったのですが、こうなると、国家としても公水を使わなければ私有地になるなどとはいっておられなくなり、・・・日本で王土王民思想というものが出てくるのは院政のころ、つまり後白河法皇の時代です。」
現代においても「公水」=土地改良区(稲作農家が組織する水利組合)に依存しないで自前の土木と設備で水利している稲作農家がわずかながら存在する。
「天水」という言葉がある。水は天からの恵み、遍く大地を潤す。ここに、類い稀に水に恵まれたわが国の自然条件から発した思想があるように思う。水を支配すること自体が権力の源泉にならない。しかし水を使う水田は平らでなければならない。平地の少ないわが国では、凹凸をなくして水平に地面を保てる土地は限られている。まして膨大な労力を投じて水田とした土地の生産力は高く、そこに非生産的な貴族・武士階級が依拠する基盤として争うに充分な価値があった。
「これは荘園を整理する理由としていわれたわけです。いってみれば日本国中どこへいっても税金を取るぞという政策が登場したわけで、それは荘園でも公領でも同じで、当時の法令によれば、「庄公を論ぜず」という言い方をしています。それではかなわないから、もっといい親分をみつけようということで、在地の武士たちが担いだのが鎌倉幕府だといえると思います。律令国家というのは、いわば住宅公団のようなもので土地を造成して貸しているという、極めて即物的な政治権力ですが、・・・後三条天皇のころから国家は何もしないで租税だけを取り立てるという、とてつもない性格に変りはじめたと思います。だから安心して頼朝政権を承認できるわけです。頼朝政権はたしかに私領を安堵するわけですが、反面では在地領主を役人として起用し、王土王民の超越的権力の犬としての役割を果たさせるようになります。」
石井は税と所有をつなぐ権力基盤が成立する日本独自の社会構造を見る。
「日本の場合、納税の意識と所有の意識とはくっついているのではない かと思います。税金を納めているから俺の所有であるという考え方・・ ヨーロッパにはこういう考え方はあまりありませんね。」
・・・・・続く