2007年01月15日

「土地と日本人」その8

この本(中公文庫)の文庫本あとがきは、昭和55年に司馬遼太郎自身によって書かれている。
それぞれの対談から数年が経って、表現こそ落ち着きを取り戻しているとはいえ、むしろそうであるがゆえに彼の中に深く沈殿した問題の重さを感じさせる。

「戦後社会は、倫理をもふくめて土地問題によって崩壊するだろうと感じはじめてから、十数年が経った。
 幼児の声は、本来、警報のためにあのように癇のひびきのつよいものになっているが、私の土地問題の提起はその程度でしかなく、幼児の声が耳ざわりなように、われながら、この問題での自分の声が愉快ではない。」

「本来、空気が人類の共有のものであるように、海も山も川も、そして野や町も、景色としてはひとびとの共有のものである。あらためてそう思うだけで、問題への解決が、一歩すすめられたことになると思っている。」

「たとえば、日本の繁華な町の国鉄の駅前は、どこでも汚い。
店舗がたがいにどぎつく自己主張しているために、醜悪という美的用語さえ使いにくい。石油カンでも叩くように、たがいに色彩と形体の不協和和音をきそいあっているだけのことである。」
「われわれ日本人は富士山を心の中で共有している。・・・・富士山を単に土地として見なければならない事情ができたとき、富士山を何割か削ることも、今日ありえないことではない。」

富士山をひきあいにするとは、日本人に対するこのうえない警鐘であろう。
しかし残念ながら司馬のこの杞憂は、この北海道で現実化した。
国立公園である洞爺湖畔を見下ろす山の頂にリゾートホテルが建った。その辺りで最も高い位置にあるその建造物は、当然にも洞爺湖を眺めるときにいやおう無しに目に入る。その存在自体が、周囲の自然環境と調和していた洞爺湖の美しさを見事に破壊した。その建物自体の醜さより、洞爺湖の美しさを踏みにじってまでも金儲けに奔走した者達の心根の浅ましさに目を背けたくなる。
彼らは同時に、私たちが「洞爺湖を共有する」ことを破壊した、と私は思う。バブル末期のことである。(衆知のことだが、そのホテルを建てた企業と銀行はいずれも破綻したが、その後別な企業が高級リゾートホテルとして経営している。)

「空間の共有という思想が成立していない。」

この司馬遼太郎のことばは、「未来の共有という思想が成立していない。」と言い換えてもいいと、私は思う。
土地は消費されるものではない。私たちが生きている限り、過去から未来にわたって私たちの足元を支え、生きる糧を与えてくれるいのちの源であるはずだ。その土地のもつ悠久の時間のごく一部を、今生きている私たちが使わせてもらっているのではないか。地域に住むものとして、日本人として、さらには地球に生きるものとして、次の世代につなげていく務めがわれわれにはあるのではないか。
                ・・・・・・続く・・・・・
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2007年01月13日

「土地と日本人」その7

松下電器産業の創業者であり、戦後日本のものづくりをリードしてきたカリスマ経営者であった松下幸之助の、土地に対する思想は明快だ。

「うちの会社は必要以上の土地は買わんのですよ。そうすると、要る人が困るから。要るだけの土地を買う、要らん土地は買うてはならんというのが、うちの方針です。」
「土地があれだけ上がったということは、人心をむしばみますな。働きに見合う所得は多少多くてもよろしいけれど、そういうものやなしに入る所得はあきませんな。働きのない所得というものはあってはならん、ということが原則にならなくてはいかんですよ。」

今日生きていたら、彼は六本木ヒルズの若き経営者たちをどう評するであろうか。

「わたしは難しい学問はわからんけれども、資本主義においては、資本で得るところの所得はそう高いものであってはならない。資本の価値は十分に認めるけれども、それは労働とか勤労、また頭脳の働きを使って得るところの所得と、資本によって得るところの所得というものは、もちろん資本によって得る所得のほうが薄いんだという考え方が原則として成り立っていなければいかんと思うのですよ。・・・・」

ここにものづくりに徹してきた経営者の哲学が明確にしめされている。それこそ、司馬(遼太郎)の称揚する「筋肉質の資本主義」そのものであろう。
しかし一方で、司馬が唱える「土地公有化」については俄かに賛同しはしない。

「共産主義になれば別やけれども、資本主義、自由主義である限りは、やはり土地を完全に公有にするということはむずかしい。土地は私有財産として認められるが、しかし、ほかの私有財産とは違う。土地だけは公有性のあるものやから、土地は自分のものであって自分のものでない、保管だけ頼まれているんや、いつでもお返しします、・・・そういう意識の培養運動をやらなければいかんですよ。・・・・」

そして、日本が大きな転換期に至っているという認識は共有しながらも、その未来に対してはむしろ楽観的だ。
世界に冠たる家電メーカーを一から育て上げた、類い稀な実践家の哲学は、あくまで未来志向のオプティミズムなのかもしれない。

「何か政治のうえにも、経済の上にも、ひとつの大きな転換期が来ておると、私は思うんです。・・・日本の過去の例を見ていると、なかなかつぶれるようでつぶれまへんな、日本は。だから、国運というものはまだまだある。遠い将来は別として、・・・何世紀かの間は発展の一途をたどるだろう、・・・」

この「見立て」は正しかったのか、その答えを求めるのはまだまだ早いのかも知れない。
それにしても、この対談を締めくくる司馬の最後の言葉は対照的に沈鬱だ。

「土地は公有だという合意が原則だけでも成立しない限り、土地の上に成立している政治、経済あるいは人文などの諸現象の生理は土地の病気をそのまま受けますから、異常が異常をかさねてゆくのではないでしょうか。まあ崩れるところまで崩れきるのを待たなければしょうがないということもあるかもしれませんが。」

                    ・・・・・・続く・・・・・
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2007年01月11日

「土地と日本人」その6

最後の章での松下幸之助との対談の中で、司馬は言っている。

「ともかくも明治維新では、土地問題はすりぬけて通ってしまったと思います。これについて野坂(昭如)さんは・・・みんなに土地の所有欲を非常に強く植えつけたのは農地解放以後ではないかと、と言うんです。なるほど・・・戦前は相当いい暮らしをしている人でも借家でした。・・・ですから土地を所有しようという欲深いところまで考えなかったのが、いまでは万人に及びましたですね。」」
「そのくせ太閤検地から農地解放にいたるまで、調査していない部分が山林なんです。山三倍と言いますでしょう。・・・そこへもってきて新幹線はつくる、新道路は拡張される、造成地はいたるところで乱開発されるというように、山林がどんどん金になっていきますでしょう。」

戦後の農地解放が作り出した膨大な小土地所有農民は、たとえ過去に小作人として搾取されてきたとはいえ、一滴の血を流すこともなく、まして自らを日本の社会における「持たざる階級」として意識することもなく、そうであるが故に「土地革命」という歴史的社会的意義についての認識もないまま、「対価」ともいえないわずかな対価を払い農地を手に入れた。
 もちろん、戦後農政の出発点のひとつが自作農主義であり、そのことが日本の農村の「民主化」にとって不可欠な命題であったことは否定できない。むしろ当時の食糧事情からして農地は私有財産というより、食糧生産のための「社会的な」生産手段という認識のほうが強かったかもしれない。
一方で明治以来農民層分解は静かに進んでいたのも事実で、(その評価は学者諸氏の見識に俟つとして)自らの才覚で相応の対価を払って農地を獲得し、自作農への道を切り開こうとする「独立自営農民」が育ちつつあった。それはまさしく司馬が繰り返し嘆いたようにわが国に育たなかった「資本主義的土地所有」の微かな芽生えではなかったか。農地解放はその時点で、農村に進みつつあった農民層分解を一端リセットすることとなり、同時に、わずかに育ちつつあった「資本主義的土地所有」の萌芽を、ある種の「モラルハザード」によって消し去ってしまったといえば、極論であろうか。
人為的に輩出された膨大な自作農民は、米価運動を「農民春闘」などと称し、あたかも労働者に倣って経済成長の分け前を要求する一方で、含み資産化する農地の所有者として保守政治を支える「持てる」層として、二つの顔をもつ特異な「階級」に変貌していく。
その過程は同時に、明治期に岩倉具視の差配で天皇家と雄藩とで分け取りされた山林が、戦後の好景気にあぶりだされて「平場の都会地へ札束を投げ込んでくる。」(司馬)過程と重なりあい増幅しあう。
ようするにこの国では、上から下まで土地持ちになってしまい、皆どこかでこの「ぶよぶよの資本主義」につながって寄生してしまった。生産過程においては世界に冠たる品質と生産性を誇る国でありながら、その結果稼いだカネは、金融過程を通じて足元の土地に貯め込まれ、「ぶよぶよの資本主義」(現代の言葉で言えばバブル)を肥大させていく。
司馬の言う「筋肉質の資本主義」を上半身とすれば、高度経済成長の果実はとめどなく下半身に流れ込み「ぶよぶよの資本主義」を肥大させるという、歴史上稀にみる醜悪な姿をさらす国になってしまった。
               ・・・・・・・・・続く・・・・・・
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2007年01月09日

「土地と日本人」その5

ぬやまとの対談の中に「天皇家の財産」というくだりが有る。
ぬやま は指摘する。

「岩倉具視の建白書に従って、明治二十三年に四百八十万町歩アッというまに、天皇家の私有財産に決められたわけでしょう。それにつづいて島津、毛利、鍋島、それからT家のような地方の素封家が山林原野を分け取りしてしまった。その面積さえ測量されていない。
その実際の面積と土地台帳を比べてみたら、おそらくどんな穏やかな日本人といえどもですね・・・。」

司馬は、その経緯を当時の大きな歴史的背景に中に説き明かしてくれる。

「天皇家の問題ですけれど、本来財産を持っていなかった京都のまあ神主さんのような天皇家が、非常に多くの山林を持つようになるのは明治十年代だと思うんです、おっしゃるように岩倉(具視)がそうさせたようですね。・・・・後になって士族の不平、自由民権運動の台頭で、岩倉が過度な神経を使う。そのころもう廃帝の声…や共和制という声があった。明治維新成立とともに天皇家をやめて共和制でいって大統領を出そうということですね。」
「そういう岩倉ですから、万一日本に自由民権運動の大反乱が起こった場合に、天皇に兵隊を養えるだけの財産を必要とするということが天皇領の発想のもとなんでしょうね。農地の方は天皇が地主になることはできないもんですから山林ということにしたんだと思うんです。」

ぬやまは憤る。

「あの膨大な土地が国有になったといっても、やっぱり官僚が管理しているわけでしょう。この誰も目のとどかないところで行われている土地の管理と資本の管理ね、これに伴う腐敗とそれが浮かびあがってくれば、田中角栄にいわせれば、おれのやったことなどものの数でもないんだ(笑)と。・・・」
 
ここで私の頭に浮かぶのが、戦後の農地解放である。もちろん岩倉具視とGHQ、天皇家と小作農、山林と農地、という全く位相の違う歴史的事件であることは承知しながら、なにかしら相通じる鈍い不快感を、腹の底に覚える。大仰に言えば、日本民族としての「内なる後進性」とも言うべき、後ろめたさというか・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・


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2007年01月08日

「土地と日本人」その4

司馬はぬやま・ひろしとの対談において、戦後の農地解放についてこう述べている。

「世界的に有名な革命というのはすべて土地問題を解決している。ところが明治維新も革命に入れるとしたら、明治維新だけが土地問題に手を触れずに過ごしたということが大きいです。・・・・戦後の農地解放・・・・私も非常に大きな評価をしておったんです。つまり明治維新でなしとげられなかったことをやった、と思っていたんですけれども、よく考えてみると、太閤検地以来の平場の農地を解放しただけであって、日本の全面積の二〜三割にすぎなくて、あとの七〜八割が山林である。・・・が宅地化し、工業用地化し、・・・いろんな土地利用のために、その無価値に近かったものが、・・・狂騰しはじめたでしょう。」

ここから、明治維新がすり抜けた土地問題を江戸まで遡っていく。
ぬやまはいう。

「徳川時代に土地を持っていたのは町人と農民だと・・・しかしね、その持っていたという所有観念、今日の私たちの所有観念は資本主義的な所有観念ですね。ところが徳川時代における・ ・・所有観念はね、今日の私たちの所有観念とはっきり区別しないとねえ。」
「農民の場合でも・・・領主が一人ひとりの農民から年貢米を取り上げるということは事実上できないし・・・その村に名主とか庄屋とかを置いて、それがつまり請け負っているようなもんでしょう。」
「いまの私たちの立場から考えれば、漠然とした所有観念しかない・・・」

私から言わせれば、ぬやまは、近代的所有観念から江戸農民の所有観念を理解しようとするから、ここでとまってしまう。この先の扉をとく鍵は、日本の(というよりアジアの)水田農業のあり方にある、と私はおもう。
つまり、水田農業は個々の農家が自己完結的に営めるものではなく、不断に維持管理を必要とする持続的なシステムの上にしか成立しないものであり、それ自体地域の共同体のあり方と不可分の関係にある。
水路の補修、畦・農道の管理、入会地の保全、用水の公平な分配。さらには、氏神神社を中心にした四季折々の行事を通じた集落コミュニティの円滑な運営に至るまで。個々の農民による日々の労働だけでなく、これら集落の老若男女が関わるあらゆる活動が、集落コミュニティ=水田農業生産システムを支えてきたのである。言い換えれば生産システムとして江戸時代の水田農業を見る場合、こうした集落コミュニティそのものが持続可能な生産手段だったと言って過言ではない。そして領主は、領地内の平和と安全に対する保障と引換えに、その集落全体を束ねる名主なり庄屋を通じて年貢を徴収していた。
こうした津々浦々の水田農業生産システムとしての集落コミュニティを基盤にして、江戸時代における社会システム全体が支えられていたのだとしたら、その時代に「個による土地所有」という概念は育ちようがないばかりか、ある意味で社会基盤を脅かす危険思想すらであったかもしれない。
反面ヨーロッパにおける農業は牧畜や果樹、畑作農業という、どちらかといえば個別経営が自己完結できる生産形態が主体であり、(もちろん集落として共同体的機能は存在していたであろうが)社会の基盤である農業のかたちが異なれば、土地所有に対する意識は当然異なってくるのではないだろうか。
            ・・・・・・・・・・ 続く ・・・・・     
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2007年01月05日

土地と日本人 その3

さらに石井は続けて、 所有概念の哲学的な根拠に遡及し、ヨーロッパと日本の違いを抉り出す。そこには、「公」と「私」に関わる彼我の違いが横たわっている。

「かれ(カント)は土地所有は基本的に共同所有であると考えたのです。個人の所有はその共同所有の一部分であると・・・普遍的な共同所有の下に自分の所有をさしだしているというのであって・・・土地所有は絶対的な自由ではなく、制限がある、その不自由をわれわれが自己の意思で自発的に作っていると考えたわけで「公」の構成部分として「私」があると考えた・・・「公」を離れて「私」はないし・・・「私」がしっかりした根をもちながら、「公」のなかに組みこまれているのです。」
「日本の場合には、「私」は次々に日陰者として押し込められていって・・・上の支配に正直に向かい合った形で自分たちの生活を形成するわけです。「公」の体制に合わせて自分を作るわけだから、「私」はだんだんに日陰者になってしまう。」

ここに至って、司馬は日本における「公」「私」の曖昧さそのものに行き着く。

「日本の「公」というのは実に曖昧ですので言葉を変えてしまわねば・・・例えばパブリックという言葉のように生で使ったほうがいい・・・」
「たとえば、中国でも、蒋介石の時代に七十数パーセントの小作がいたわけですから、そういう私的な地主を追放すれば革命が行えるわけ・・・日本の場合、われわれが加害者であり、同時に被害者であるという極めてややこしい関係にあるわけです。これを明晰な形で解決するのは大地だと思うのですが・・・」

つまりは、「公」と「私」が入り混じり入れ替わる。
そして、ことは私的所有に基づいて社会的生産を営む社会構成体である資本制社会の日本的特質そのものに及ぶ。
いうまでもなく、私的所有物である生産手段によって営まれる生産活動は、私的利益の追求であると同時に社会的富の生産である。無人島のロビンソンクルーソーではなく資本制社会に存在するわれわれの生産活動は、商品交換を前提とした社会的分業に基づくものである。
日本において、その生産関係の中における資本家と労働者といういわば「公」的な規定性は、一労働者の人格においてすら、日常的に転換しうる。 とある工場の一労働者は、「私」的場面にあっては先祖伝来の田んぼを工場用地として貸している地主であったりするわけである。
司馬が憂える日本の土地問題は、日本における土地所有そのものが、基本的にこうした小規模で大衆的な私的所有によっており、それゆえに「公」=社会性が問われづらい構造に根を発しているのではないだろうか。
すでにみてきたように、ヨーロッパにおいては私的所有そのものは「公」に組み込まれており、そのコインの裏側にはその社会的性格が明確に刻印されている。封建制から近代資本制社会に移行する中で、土地所有の社会性そのものが根底から鋭く問われざるをえない過程を経ているはずである。
翻って日本の場合には、どうだったのだろうか?

               ・・・・・・・・ 続く ・・・・・・
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2007年01月04日

「土地と日本人」その2

司馬(遼太郎)は石井(紫郎)との対談のなかで、土地問題に対する特別なこだわり を吐露している。

「日本人の国民経済だけでなく精神も文化もモラルも都市も農村も、何もかも土地という悪の巨大な誘引体のためにだめになってゆく―もしくはだめになってしまった―ように思うんです。このために日ごろはまことに傍観者であろうと努めている私が、この土地問題になると、急にアクティヴな人間に変わり、この問題だけはどうにかしなければならないと思ったりしているのです。」

そして、法制史学者である石井と律令制まで遡り日本人の土地意識のルーツを探る。
石井は土地制度の変遷を明快に解き起こしてくれる。

「だから律令政府などというものは、住宅公団か土地開発公団で、農地を造成して配分することに目標があったわけです。・・・班田収授法という制度は、国家がこれだけは水田を造成して農民に配りたいというものだったと思います。」
「この開発政策で生産力が増加し、人口が増えてくるとたちまち口分田は不足してくる。そして班田制を運営できなくなると、民間ディベロッパーの手に委ねることになるわけで、三世一身の法とか墾田の永世所有を認めるとかいう現象は、こうしたディベロッパーの活躍を公認するものだったと思います。」
「律令制の原則では官の水、つまり公水を使わないで開墾した土地は私人のものになるわけで、こうした方法によって私有地が拡大していったのですが、こうなると、国家としても公水を使わなければ私有地になるなどとはいっておられなくなり、・・・日本で王土王民思想というものが出てくるのは院政のころ、つまり後白河法皇の時代です。」

現代においても「公水」=土地改良区(稲作農家が組織する水利組合)に依存しないで自前の土木と設備で水利している稲作農家がわずかながら存在する。
「天水」という言葉がある。水は天からの恵み、遍く大地を潤す。ここに、類い稀に水に恵まれたわが国の自然条件から発した思想があるように思う。水を支配すること自体が権力の源泉にならない。しかし水を使う水田は平らでなければならない。平地の少ないわが国では、凹凸をなくして水平に地面を保てる土地は限られている。まして膨大な労力を投じて水田とした土地の生産力は高く、そこに非生産的な貴族・武士階級が依拠する基盤として争うに充分な価値があった。

「これは荘園を整理する理由としていわれたわけです。いってみれば日本国中どこへいっても税金を取るぞという政策が登場したわけで、それは荘園でも公領でも同じで、当時の法令によれば、「庄公を論ぜず」という言い方をしています。それではかなわないから、もっといい親分をみつけようということで、在地の武士たちが担いだのが鎌倉幕府だといえると思います。律令国家というのは、いわば住宅公団のようなもので土地を造成して貸しているという、極めて即物的な政治権力ですが、・・・後三条天皇のころから国家は何もしないで租税だけを取り立てるという、とてつもない性格に変りはじめたと思います。だから安心して頼朝政権を承認できるわけです。頼朝政権はたしかに私領を安堵するわけですが、反面では在地領主を役人として起用し、王土王民の超越的権力の犬としての役割を果たさせるようになります。」

石井は税と所有をつなぐ権力基盤が成立する日本独自の社会構造を見る。

  「日本の場合、納税の意識と所有の意識とはくっついているのではない  かと思います。税金を納めているから俺の所有であるという考え方・・  ヨーロッパにはこういう考え方はあまりありませんね。」
                      ・・・・・続く
      
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2007年01月01日

「土地と日本人」その1

謹賀新年。
今年は冬の間くらい読書日記代わりに更新したい、と思う元旦の朝です。
せいぜい三日坊主にならないよう努力します。

何年か前、古本屋さんで司馬遼太郎の対談集「土地と日本人」を買った。
中公文庫から昭和55年に出された本である。
裏表紙に
「<戦後社会は、倫理も含めて土地問題によって崩壊するだろう>この状況を憂える筆者が各界5人の識者と、日本人と土との係わり、土地所有意識と公有化の問題などを語り、解決の指針を提示する。土地という視点から見た卓抜な日本人論にまで及ぶ注目の対談集。」
かねてから私の中に漠然とあった資本主義における土地所有にたいする関心にヒットして繰り返し読むようになった。

対談者は野坂昭如(作家)、石井紫郎(東大教授歴史学者)、高橋裕(東大教授土木工学)、ぬやまひろし(詩人にして革命家(?))、松下幸之助(松下電器創業者)
当時の田中角栄「列島改造論」に始まって全国に広がった、今で言う土地バブル、野坂との対談の中、司馬はこう嘆く
「ぼくはいわゆる河内の国に住んでいるわけです。・・・・今から12,3年前までは、そのあたりの丘陵地帯を歩いているだけで実にいい感じのする田園だった。いまはそこがいちばん悪くなってしまっています。ゴミの山です。つまり自分の農地をだれかに売ってしまう。買うのは投機業者・・・・農業にいろんな問題があると思うんだけれども、とにかくこの国において何をどうする、ということをどう考えてもすべて枝葉です。土地を公有にする以外に方法はありませんね。」
かなり身近で切実な危機意識からかいきなり「土地公有論」が飛び出している。私なりに理解する彼の思想的ポジションからすると唐突な観があるが。

「これだけの狭い国土で、平場の土地が二割もないところでしょう。そして社会の生産形態が少し変わると、体に合わせて洋服を作り直すみたいにして国土を変えていって、その変え方がめちゃくちゃなんだ。土地問題を貫いて、こうすればいいという大思想がないんですよね。そして技術だけがあるから、危なくてしょうがない。大工事ができる土木機械だけあって、・・・それが途方もない自然破壊にもなるんですね。」

「とにかく土地についての思想を明快にしてから、資本主義をやってくれ。今の投機的な資本主義はかなわん感じでしょう。農業だって投機にまき込まれている。農業者自身の意識が投機的になっている。」

私にはこれが過去の話とは思えない。明けて一昨年。愛知博に行った時、あの辺りは「世界のトヨタ」の城下町だろうと思うが、当時日本で最も景気の良い地域だったらしいが、その景観の醜さといったらない。田んぼの中に
パチンコ屋とディスカウントストアとコンビニが軒を並べ、郊外は住宅地と
農地が渾然一体となってそれぞれ勝手に存在している。相互に全く関連性や秩序無く、そこには効率性も社会性もましてや美意識のかけらも伺えず、到底地域社会が成り立つとは思えない見事な無秩序である。
これが好景気の産物ならば、北海道には無用といいたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 続く

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2006年12月02日

いよいよ冬本番

昨夜雪が20センチほど積もり、我が家のオンボロトラクター初出動。まだ下がしばれてないので軽く踏み固める程度ですが。
それでも前の国道275号は、圧雪状態で道行く大型トラックはゆっくり運転です。
これで外仕事はしばらくお休み、農家としてはやっとシーズンオフ。
このブログももう少し書けるかな?
ただ恥ずかしながら写真の入れ方が判らない。まあいいか、とりあえず文章だけで。
このごろ思うこと。いじめ、自殺。子供は、学校はどうなってる?
でも子供は家庭を映す鏡。学校は社会を映す鏡。家庭が歪むから子供は歪む。社会が歪むから学校が歪む。
自分の身支度の乱れを直さないで、鏡を直そうとしている?
健全な地域社会の成り立たないところに子供たちの社会が成り立ちようがない。みんな自分さえ良ければいい社会。子供にだけ思いやりを強要するな。

毎年3万人も自殺していても平然と動いていく社会。子供の自殺があっても何もおかしくない。
マスコミはなぜ学校だけを責める?みんなが犯人探し、自分は悪くない。
マスコミにとっては多数が善。おばかな番組でも視聴率を稼げばいい番組。
多数にうける分かり易い意見こそいい意見。
視聴者を多数の「正義」の側に案内して安心して見てもらう。
多数尊重、異端排除、マスコミはその辺りを狙う。
でもそこにいじめの底に通じて流れる心理はないか?
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2006年11月21日

農家の楽しみ

この間から回りが白くなり始め、(根雪になるかな?)冬支度に精を出しているつもりが、なかなかはかどりません。体も冬篭りに向かってペースダウンでしょうか?
先日から仲間と、漬物にチャレンジしています。「冬の新事業立ち上げ」、と称していますが、やってみるとなかなか楽しい。
今回はとりあえず自家産の大根で玄米漬け。
炊いた玄米を人肌に冷まし、母の手製麹、ザラメ、タカのつめを混ぜると
なんともふくよかな懐かしい香りが拡がります。
それをニ斗樽の底から干した大根とサンドイッチにして塩を振りながらギッシリと詰めていく。これが結構力仕事ですが、始めると夢中になります。
塩を振るのを忘れたり、混ぜ玄米が足りなくなったり、ややいい加減ですが
それもオリジナル。商売にするにはまだまだですが、自分で育てた野菜で自分で作る漬物。これこそ農家にしか出来ない贅沢な楽しみと思います。
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